水とつくる伊豆の暮らし

カメヤの歩み

第3話 観光土産の開発と幻のレストラン

昭和39年10月、東京オリンピックが開催された年のことでした。東海道新幹線の開通により、富士箱根・伊豆に観光ブームが到来します。 
地域の観光産業が右肩上がりで成長し、この時期にカメヤも新しい工場の建設や直営店の出店を果たしていました。 
そんな中、後に二代目を継ぐことになる亀谷健(当時専務)はわさび漬だけではなく、様々な商品の開発に取り掛かります。 

わさび漬と農兵漬
金山寺漬

昭和43年には工場よりほど近い駿河湾の海の幸に着目し、塩辛・わかめ・海産珍味の製造販売を開始。すると観光土産として飛ぶように売れてゆきました。 

そしてカメヤは、沼津税務署から優良法人として年々表彰されるようになります。二代目のアイディアがカメヤの一時代を築いたのでした。 

カメヤ独自の製法による塩辛
生わかめ 
駿河湾特産桜えび

昭和44年になると、東名高速道路が全線開通しました。ちょうどこの時期は日本中で自家用乗用車の普及が進んでいた頃でした。 
車時代の到来を予見していた二代目は、沼津東名インター通り(現グルメ街道)沿いに、当時としてはまだ珍しい郊外型レストラン『ジョイ』を開店します。 

100名分の客席を備えたレストラン『ジョイ』は、とても繁盛し、「皿が宙を舞っていた」と回顧されるほどの人気店になりました。 
セントラルキッチン方式(別の場所で調理し、レストランに提供する仕組み)の導入も検討されましたが、料理人の理解を得られず、人材育成には苦労したようです。 

そのうちレストラン『ジョイ』は国道246バイパス道路の路線計画にかかり、昭和58年に惜しまれながらも閉店を余儀なくされました。昭和44年の開店からわずか6年のことでした。 

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