水とつくる伊豆の暮らし

カメヤの歩み

第2話 個人商店から株式会社へ

昭和29年、平一と登志の息子である亀谷健(現会長)は、高校を卒業すると東京築地にある老舗の漬物店に就職しました。当時は朝5時から夜の7時まで働き通しの日々でしたが、午後3時になるとおやつ休憩があり、それが楽しみだったそうです。40~50㎏の樽を持ち上げたり、漬物石も手で上げたり下ろしたりと、かなりの肉体労働でした。

昭和36年にカメヤは資本金100万円の株式会社となります。健も実家に戻り、この年に専務となりました。
この頃からわさび漬けが観光土産として爆発的に売れるようになりました。人手を増やすために平一の故郷である岐阜県可自村とその周辺から男性社員が2名、 伊豆の西海岸井田から6名の女性社員が入社しました。

登志(創業者妻)と創業当時の社員

昭和39年には東海道新幹線が開業。三島駅前の土産店では、カメヤの商品が飛ぶように売れました。そんな中、今までの工場が手狭になったため新工場を着工し、翌年の昭和40年にはカメヤ清水町第二工場が完成しました。敷地面積は825㎡。建物は660㎡の鉄筋2階建てで、現在もわさびの一次加工工場として稼働しています。

清水町第二工場

昭和41年、この年に韮山町(現・伊豆の国市)の伊豆日通富士見ランド に、カメヤ直営店を初めて出店しました。
平一が書き残した備忘録に、この年の「カメヤ10大ニュース」が今も残っています。
自動車事故がなかったこと、清水町第2工場が落成したこと、社員が住まいを新築したこと、配送車を増車したこと、東海地方に台風26号が上陸し、死者314名、会社も被害を受けたこと、新商品を発売し実績を上げたことなどなど、当時の活気を今に伝えています。
昭和42年には資本金を600万に増資し、社員数も50名となりました。

亀谷平一、健と社員との慰安旅行

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