こちらの記事では伊豆わさびの協同生産について触れてきましたが、今回はその後、わさび需要が高まった背景についてのお話です。江戸で起こるわさびブームとその品質、流通について触れていこうと思います。
わさび消費量増加の背景
「わさび仲間」が作られたのと同時期の文化年間(1804~1818年)には、江戸の町では屋台などの外食産業が流行の兆しを見せ始めていました。その中でも「握りずし」は大人気を博しました。特に「握りずし」に入れられたわさびの、鼻にツーンとくる刺激は、江戸っ子に衝撃を与えました。また当時は魚の鮮度を保つ方法がなかったため、生臭さを消すのにもわさびはうってつけの食材でした。
最初にわさびを江戸で使い始めたのが江戸深川六軒掘(現在の江東区新大橋付近)の「松がすし」で、鯖ずしにわさびを合わせます。
その後、文政年間(1818~1830年)には江戸霊岸島(現在の中央区新川)の「すし屋与兵衛」がコハダの握りずしにわさびを使い、それがきっかけとなって握りずしが流行ったと言われています。このようにしてわさびを使う食文化が広がりを見せたことにより、わさびの需要は急速に高まっていきました。
また、江戸時代ではわさびは珍重されたため、領主などへの手土産や献上品としてもよく用いられました。
需要が増えたわさびの品質と流通
天保6年(1835年)、わさびの需要が高まってきた江戸では、以下のような等級に分けてわさびの品質を管理し、売買をしていました。
大極上 一本……十六文四分 大物 一本……十四文 中 一本……十二文五分 並 一本……十文 葉付 一本……十二文五分 |
大極上から順に並までの4つの等級があり、その他に葉付きのわさび、わさびの葉のみを売るという売り方も記録として残っています。江戸後期、かけ蕎麦は一杯十六文と云われており、現在の紙幣価値に直すと300円程度(一文=20円前後)になります。わさびは大極上といえどもかけ蕎麦一杯と同じ一本300円ということで、今と比べるとまだまだ安値で取引されていた印象です。
中伊豆わさびの流通経路
天城山内で収穫された中伊豆のわさびは、陸路で国士峠・冷川峠を越えて伊東へ運び、そこから船で江戸へ運んだと言い伝えられています。江戸時代の物流は海路が中心であったため、おそらく南海路を通って運んでいたと考えられます。
生産高と税金
こうして様々な人が栽培をし生産されたわさびは、湯ヶ島町だけで年間110t~120tまで増産され、中伊豆町ではそれよりも更に多く、河津町でも同様の生産高があると言われていました。
江戸時代の終わりごろには生産が増加したことにより、今まで年貢として納めていたものを運上金に変更しました。天保年間(1830~44年)には、瓜生野村(現在の修善寺)の分一番所*1へ運上金を納めて流通するようになったようです
まとめ
わさびが大量消費されるようになったきっかけの「握りずし」は、今や日本を代表する料理ですが、当時は江戸っ子の粋な食べ物であり、わさびもそれに欠くことのできない食材となりました。
その後、品質も上がり価値が上がったわさびは大量に作られ、多くの人のもとに届くようになったのです。
後注
- 分一番所
船荷に対して何分の一の運常金を税金として徴収する場所。ここを通らずに行ってしまうと、抜荷として厳しい処分を受けることになる。 ↩︎
参考文献
企画・発行:社団法人 農山漁村文化協会『全国の伝承 江戸時代 人づくり風土記 聞き書きによる知恵シリーズ(22)ふるさとの人と知恵 静岡』 1990年2月20日 第1刷発行 企画・編集:株式会社 組本社 静岡水わさびの伝統栽培~発祥の地が伝える人とわさびの歴史~ 静岡わさび農業遺産推進協議会