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歴史の中のわさび

【静岡とわさび③】伊豆わさび生産増加までの道のりー協同生産編

こちらの記事では、わさびが伊豆へ伝来した理由について触れてきましたが、今回はそこから約50年後のお話です。
板垣勘四郎はどのようにしてわさびの生産を増やし、売り出したのでしょうか。

今回も様々な史料をもとに、伊豆のわさび生産の道のりを追っていこうと思います。

狩野口三ヵ村でのわさび協同生産の開始

 わさび栽培が定着した湯ヶ島村でしたが、近隣の市山村、門野原村にも御林に入る権利があり、湯ヶ島村を含めた三つの村を合わせて、狩野口三ヵ村と呼ばれていました。

そこで板垣勘四郎は、狩野口三カ村の協力を得て「わさび仲間」という組織を立ち上げ、協同でわさび田を管理しました。「わさび仲間」はわさび田を公平に利用できるようにするため、利用の際の取り決めや管理体制を整え、わさびを協同で生産する道筋をつけました。
また、相互で環境資源へのアクセスを監視したことで、わさび田周辺の環境維持に貢献しました。

収入を巡る争い

当時、幕府から個人で天城山内の土地を借用し、わさびを栽培することが可能だったため、わさびで生計を立てる者が増えてきました。すると、儲けを巡り争いが起きることもありました。当時は天保の大飢饉と重なっていたこともあり、よりお金に関する争いが起きやすい時代背景があったのです。

ただ、天保年間(1830~44年)には、わさび栽培のおかげで湯ヶ島村には1年間に600両~700両(1両75000円計算で4500万円~5250万円)ほどの安定した収入があり、 飢饉の影響は少なかったようです。

更に文化年間には、大見口(今の中伊豆町)でもわさび栽培が行われ、伊豆天城全体でのわさび栽培面積はどんどん広がっていきます。明治初年には狩野川口だけで8.8ヘクタールにも及んだと言われています。

まとめ

わさびの生産を増やしていく過程で、「わさび仲間」を作り協同生産を始めたことで、狩野口三ヵ村でのわさびの生産が飛躍的に伸び、天保の飢饉があっても、人々が生活に苦しむことはありませんでした。

参考文献
企画・発行:社団法人 農山漁村文化協会『全国の伝承 江戸時代 人づくり風土記 聞き書きによる知恵シリーズ(22)ふるさとの人と知恵 静岡』 
1990年2月20日 第1刷発行
企画・編集:株式会社 組本社 

静岡水わさびの伝統栽培~発祥の地が伝える人とわさびの歴史~ 静岡わさび農業遺産推進協議会

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