こちらの記事では、わさびと徳川家康の関係について触れてきましたが、今回は家康が亡くなってから数百年後のお話になります。家康は有東木わさびを門外不出のご法度品にしましたが、なぜ有東木から伊豆へわさびが伝来したのでしょうか。
今回はさまざまな伝承をもとに、わさびが伊豆に伝来した理由を追っていこうと思います。
〈時代〉
天城山麓でのわさび栽培が始まったのは江戸時代後半。徳川家康(1543~1616)が亡くなってから128年後の延享元年(1744)です。時は8代将軍徳川吉宗の時代でした。
自然の宝庫。伊豆・天城をとりまく環境
天城山は日本百名山の一つとしても有名で、年間の降水量が多い土地です。
そのため樹木の育成に適しており、マツ、スギ、ヒノキ、カヤ、ケヤキの五種類の木を五木(ごぼく)と言い、伐ってはいけない木として幕府が禁制木に指定していました。江戸時代にはこうした山を御林(おはやし)と呼び、幕府が中心となって管理してきました。一般の農民は御林の木を使うことも、伐採することも禁止されていました。
しかし地元の村だけには、幕府から「御林の管理をする代わりに入ってもよい」という権利が与えられていました。そのおかげで、禁制木以外の雑木を持ち帰って薪や炭にして売ったり、木を加工し小道具として売ったりして村の人々は収入を得ていました。
そんな権利を与えられていた湯ヶ島村(現在の伊豆市湯ヶ島)では、椎茸栽培で採取した椎茸や御林で作った炭を主な収入源にしていました。しかしながら江戸時代の中期・後期になってくると、椎茸栽培に使うシデの木が不足し始め、村の人々は地元での椎茸採取が難しくなり、他の県へ出稼ぎに出ることが増えていきました。
椎茸伝道師の板垣勘四郎がわさびを栽培し始めた理由
当時の椎茸栽培は現在の栽培法と違って鉈目法という、椎茸の胞子が自然に定着するの待つ栽培方法を採用していました。そのため、椎茸を確実に発生させるには職人の高度な技術と勘が要求されました。
有東木村でも椎茸栽培を安定化させるため、椎茸栽培師を呼び、その技術を教えてもらうこととなりました。そこで天城山狩野口の山守である湯ヶ島村 板垣勘四郎(1686~1761)は、代官の命令により椎茸栽培の師として、駿河国阿部郡有東木村(現在の静岡市)へ派遣されることとなったのです。
有東木村で熱心に椎茸栽培の指導をしていた勘四郎はその努力と熱心さを買われ、御礼として有東木村で栽培されていたわさび苗を贈与されました。勘四郎はその後、湯ヶ島村内の浄蓮の滝近くの岩尾地蔵伽藍にて贈与されたわさびを育て始めます。勘四郎の弛まぬ努力と、湯ヶ島の環境がわさび栽培の環境と合った結果、わさび栽培は大成功。わさび栽培は湯ヶ島村で定着していき、地元の大きな収入源となったのです。
まとめ
伊豆へのわさび伝来には板垣勘四郎の弛まぬ努力と、そんな勘四郎の熱意に対する有東木の人々の思いがありました。人々の紡いできた努力の上に、今日の”伊豆のわさび”があるのかもしれません。
参考文献
企画・発行:社団法人 農山漁村文化協会『全国の伝承 江戸時代 人づくり風土記 聞き書きによる知恵シリーズ(22)ふるさとの人と知恵 静岡』
1990年2月20日 第1刷発行
企画・編集:株式会社 組本社